同人活動の師弟関係について

2024年になって1ヶ月が経ち、今年の抱負も自分の中で明確になってきたところで、改めて2023年に経験した出来事のなかで最も印象に残っているものが何か整理をしていたら、InDesignを教えた弟子が初めて自力で1冊の同人誌を制作・頒布したことだなと思った。

これが個人的に新鮮な感慨だった。

自分は今まで、とにかく自分自身のスキルを磨くことに執心していて、共同制作に参加することはあっても、純粋な弟子を取るようなことはなかった。

実は2019年にはDTMの弟子を(有償で)受け入れたことはあったのだが、その時はクラシックの経験者にDTM特有の知識を授けるような形に近く、「音楽は何が面白いのか」という根本的な部分まで啓くような形ではなかった(クラシック経験者なら当然わかっているので)。

また、C++の弟子を取ったこともあったのだが、その時もやはり別言語の経験者に“本物のローレイヤー言語”であるところのC++特有の知識を授けるような目的が大きく、「プログラミングは何が面白いのか」という本質的な部分に気づかせ感動させるような働きかけは必要なかった。

しかしInDesignの弟子に関しては訳が違った。世の中の普通の人は組版というものを知らない。版面の天地で視座が変わり、字面に表情があり、文字組みアキ量で呼吸が生まれることを知らない。そういった現実を織り込んだうえで組版とは何なのかゼロから指導する形だった。

 

本来、師弟関係というのは業界経験者のベテランが余裕をもって行うものであって、私のような三十路の人間が弟子を取るなど、もし私自身に古典的な意味での師匠がいたら身分不相応だと厳しく叱責されることだと思う。ただ、そういう時代でもなくなった。古典的な意味での師弟関係、つまり落語や工芸職人の師弟関係でイメージされる形ではなく、ハイアマチュアやセミプロレベルの同人作家がカジュアルにノウハウを授与できるというのが現代の師弟関係であり、それこそが師弟関係の進化形でもある。

また、「師匠」「弟子」という言い方も、何だか時代錯誤な(昭和的な)身分制度を象徴しているような気がして若干引っかかるのだが、それはそれとして、若者である我々自身が「師匠」「弟子」という重苦しいタームを自称しているのが面白おかしいので、そのおふざけも含めて少し気に入っている。

 

とにかくInDesignを教えるという試みは驚くほどうまく行った。これは師匠である私も、弟子も、最初の段階(つまり現代的に「カジュアルに教える・教えられる」という関係性を想定していたであろう初期段階)では予想だにしていなかったことだと思う。先述したような新鮮な気づきが得られ、「組版とはこういうものなのか」あるいは「本はこんなにも奥深い物なのか」という認知の転換がやり取りをするうえで何度も生まれている場面に遭遇し、その度に自分も感動したのを覚えている。

年末年始に、その弟子が制作した同人誌を実家に献上したら、うちの親は自分の子供の実績以上に喜んでいた。最初こそ「そんな大袈裟な」と少し可笑しく思ったものだけど、今ならその気持ちがわかる気がする。

とにかく今は、その弟子のプロフィール欄の「好きなこと」のリストに「組版」が増えたということと、世の中の出版物の文字組みアキ量が如何に適当か日々辟易するツイートをする仲間が1人増えたことが純粋に嬉しい。

他人がくれる意見の価値について

仕事にしろ、創作にしろ、人と意見を交換する機会は日常的にある。

良い意見を頂いた時、「良い意見ですね、ありがとうございます」という感想が自然と出てくることも多い。

ただ、自分の場合、人から言われた意見が「本当に価値がある意見なのか」……というようなことを無意識的に判断してから、「良い意見ですね、ありがとうございます」と言うことが多かった――ということに最近気がついた。

つまり、相手が言った意見の「内容」の良し悪しについて無意識的な価値判断が働いていたことになる。

もちろん、複数人で意見交換をする場というのは何らかの共通の課題があって、それを解決するために意見を出し合うわけだから、相手が出した意見の「内容」が有効かどうかを評価するのは自然なことだ。なんなら、評価をしなければその先(つまり具体的な実現方法を検討する段階)に至れないわけで、必須とも言える。

ただ、意見の内容への評価を議論の一環としてではなく無意識的に行っているとすれば、それは人の論理的思考に潜む傲慢な習慣なんじゃないかと思った。

この気づきを得てから、他人の意見に対して自分が感心した場面を振り返ってみたら、確かにそういうグロテスクな価値判断を無意識に下しているシーンも多かったように思われたが、それとは別系統のものもあった。

意外な意見だ。

意外な意見は、「意外な意見だな」という本能的な感情が先に出てくるので、口をつく言葉としては「なるほど、そういうのもありましたかぁ」的な反応で止まってしまうことが多い。

ただ、よくよく考えてみると「意外な意見」というのは要するに自分の中にはない着眼点から生まれた意見であり、「良い意見」そのものなのではないだろうか?

創作を分析するということ

私が主宰しているゲーム制作サークルは、設立当初、とにかく既存作品の分析から入った。

具体的には、既存の美少女ゲームで使われている画面効果、トランジション、漫符などの記号的表現をスクショ付きで分類し、サークル内Wikiにまとめるという作業を手分けして行った。

そうやって実例を体系化し俯瞰することで初めて見えてくるメソッドというのがある。

一つの例を挙げると、「このシーンで長いトランジションを使っているのは主人公が長い距離を移動しているからだ」などの事実に、逆引き的に気づくことができた。これは言葉にしてみれば当たり前のことかもしれないが、実際には、演出次第では長い移動でも短い切り替えで済ますこともあるし、メーカーによっても違うし、映画の技法でいうところのエスタブリッシングショットにあたる背景CGから始めている作品もあった。忘れてはならないのは、特定のシーンがどういうメソッドで実装されているかを考察して悦に入るのではなく、パターン集として血肉にするのが重要ということ。

 

こういうやり方で進めてきたので、最初の1〜2年は、叩き台としての企画ドキュメントこそ真面目に作ってはいたものの、メンバー間の議論でより本質的なのは「ノベルゲームシステムとは何か」「美少女ゲームとは何か」という話だった。ようは自分らの作品を作る以前の話である。

何もわからないまま作り始めるような高慢なやり方をせずに、地道にスタートを切れたのは正しかったと今になって思う。なぜなら、分析して血肉となったパターン集が、のちに作品内容についての具体的な議論が始まってから絶妙な効果を上げ始めたから。

たとえば、「このシーンでこのキャラは複雑な思惑を抱えているけど、すぐに主人公との対話で吐露する形にするとシーンが重たくなるし情報過多だから、プロットの時点で分割して、濃い話は後で回想として出そう。ほら、あの〇〇という作品の〇〇のシーンで実例があったよね」とか。最後の一文がとても重要。

難しい議論をしている時にこういう「実例」が出てくるのと出てこないのとでは、イメージの伝わりやすさが違う。言っている方も言われた方も「確かにそれが使えるわ」と自然に納得できる。しかも、そのアイデアが採用されず反対意見が出るときも、「確かにそのパターンもあるけどここはどちらかというと〇〇の方向性で」と別解を提示される形になり、この別解は既に出ている具体例に対する別解なので、風味の違いが伝わりやすい。

私は「創作の行き詰まりの9割は、自分自身が何をやりたいのか分かっていないことに起因する」とよく問題提起しているのだが、分析的な営みあるいは分析的な議論は、それに対する解決策の一つでもある。

 

こういう風に研究から入るスタイルは、なにもクソ真面目な「努力」みたいなことをしようという高尚な取り決めがあったわけではない。私にとってはもともと習慣化していた理系的営みの一環だった。決して日常生活や事務的な単純仕事をしている中で要求されるものではなく、エネルギーが必要な行為だ。だから、他のサークルメンバーがついてきてくれるにあたり、どうして早く自分たちの作品そのものについて掘り下げないのかもどかしく感じることもあったと思うし、サークル代表である私が言い出したから仕方なく付き合ってくれた部分も大きいと思う。

別に習慣があるなしに関わらず、そういうやり方をすると決めたのは私だから、分析的な作り方に慣れてないメンバーに慣れてもらう工夫をするのは私の仕事だし(実際、商業作品の設定資料集並みの膨大な内部資料を作っている)、意見を求めたら出してくれるのもわかっているので、感謝することはあれど不満に思うことはない。だけど面白いのが、世の中には創作をする時に分析的なことをする人としない人がいるという事実だ。

私が今まで出会った創作者に、どちらのタイプもいる。ある人は、私が提示する進め方が一種のフレームワークであることをわかったうえで自然と同調していると思う。これは、その人自身がもともと分析的な営みを習慣化している人だからだろう。ある人は、分析されることをよしとせず、分析されるとクリエイティビティが削がれる、内容についての方針はふんわりとしたコンセプトのまま投げてほしいと言う。

 

分析的習慣の中心を占めているのは言語化という営みだ。

世の中に言語化できない概念はない。なぜかというと言語化とは未知の概念に名前をつける行為だからだ。つまり言語化できていない概念が出てきた瞬間に名前をつけたらそれはそのとき言語化が完了する。しかし矛盾するようであるが言語化しきれないものというのも存在する。それは行間だ。

ある概念に名前をつけても、その概念と別の概念との間には隙間がある。その隙間にいったん名前を付けたとしてもまた隙間が見えてくる。これを行間と呼んでいる。無限にあるものに名前をつけても終わりがない。

たとえばキャラクター設定についての話をしてみる。「親を交通事故で失って叔母に育てられた女の子」がいるとする。この時点で言語化は一度完了している……果たしてそうだろうか? 

「親を交通事故で失って叔母に育てられた女の子」という言語化では、親を交通事故で失ったことと、叔母に育てられたことと、女の子であることしか情報がない。もしこの表現を見た人がなんらか「不幸そうだ」とか思ったとしたら、それは想像の結果であり、先の言語化にはひとつも含まれていない。

実際には、幸せな部分と不幸せな部分があり、その「総体」を描くのが作品だと思う。総体には言語化できる要素とその行間がすべて含まれている。物語はそのすべてをありのまま見ることができるから尊いのだと思う。