少し前にTwitterのおすすめタブに流れてきたツイートを見ていて、自分と音楽の関わり方って結構特殊なんだよなと思い返していたので、一度くらい文章にしておきたいと思って今日は記事を書き始めます。
まず、個人的に、音楽が他のあらゆる媒体(メディア)よりも突き抜けて特殊なのはこの1点に尽きる。
- 三次元的な風景を、その奥行きを保った状態でありのまま表現できる
この
こう書くと「いや、絵だって空気遠近法あるし」とか「空気遠近法みたいなミクロな技法に頼らなくたって絵で心象的な奥行きを表現する手段なんて幾らでもある」とか「お前は美術を知らないようだな」とか言ってくるおじさんがいそうで怖いんだけど、私が言いたいのはそういうことではなくて、もっと素朴に、「音楽って音の位置とか強さとか長さとか減衰で立体的な空間表現ができるよね」ということです。
次に、ここからは少しポエムみたいに聞こえるかもしれないけど自分としては大真面目に思っていることが1つあり、
- 世界がぶっ壊れたとしても音楽はできそう
例えば絵だったら、世界がぶっ壊れたら、洞窟に壁画を描くくらいしかないわけじゃないですか。そこで表現できるモノは、表現力という意味では凄く限界があるじゃないですか。でも音楽だったら、石ころぶつけたり木の枝を削ぎ落としたりするだけで極めて多彩な音の表現ができるんですよね。
この動画とか、音MADというミーム文化を知らない人からすると「何だこのふざけたネタ動画は」って思って終わりかもしれないんだけど、石ころで音を表現するという観点で見れば十分に「音楽している」じゃありませんか。
どうしても崩壊世界で絵の表現力を追求するんだったら、画材を自作していく方向になるんですけど、たぶん崩壊世界って放射能とか病気があるし、重度の骨折とかしてて自分は死にかけだと思うんですよね。そんな状況で「壁画の表現力が足りないから高度な画材を自作しよう」ってなるかというとならないと思う。
壊れた世界とか極端な例を出してしまったけど、現実でもぶっちゃけハードオフで壊れかけのアコギを1,000円で買ってくれば音楽できるんですよね。「音楽をやろう」って思ってから「(出した音が)音楽になる」までのハードルがとても低い。もっと言うと全身全霊でピンポン球を撒き散らすのだって十分に風景は見えるわけです。
自分はこの動画の音を聞いて、子供の頃に親に連れられて行ったベトナムの露店街が見えてきて普通に感動しました。3輪タクシーとかが走ってるところ。
そもそも論を言うと、絵を描く時点でモチーフって何らかの記号化をしなきゃいけなくて、エジプトの壁画だって実際にそこに描かれているものは「風景そのもの」ではなく「記号の集合体」ですよね。石ころから出てくる音は記号ではなくありのままの音じゃないですか。
つまり一種のプリミティブさが音楽の根本にはあって、絵などの他のメディアにはないもので、自分にとっての「音楽それ自体が持つ特別性」のような感覚に繋がっている。
次の1点は、「自分にとっての音楽」というより「自分にとっての音楽制作」に近い話なんだけど、
- 自分にとっての音楽は「社会とのコミュニケーションを取る手段」の一つ
というのがある。良い反面教師が、
絵描き相談スペースを聞いてると「絵はとくに好きじゃないけど、自己実現の手段として絵描きになりたい」という人たちがいて「あまり絵を描いていませんが、絵で何者にもなれず困っています」と相談するのをよく見る
— TANAKA U ゲーム系フリーランス (@TANAKA_U) 2024年2月18日
このタイプの人はいろんな「先生」のスペースに出没しては同じ質問をする
まあこれだけ見ると、よくある業界人の(大人げない)ワナビ批判で、令和のSNSに特有の毒があって正直良い気分はしないんだけど、この点は一旦置くとして。
この人は創作におけるめちゃくちゃ根本的な要素を見落としてる気がします。
まず「先生」のスペースにわざわざ質問しに来る時点で、その人は「絵」という媒体に関してなにか自分と切っても切れない縁のようなものを感じているわけでしょ? だって知らない業界人のTwitterスペースで発言権を要求して喋るの死ぬほどハードル高いですよ。質問者が本当に救いようもないタイプのワナビだったらそこまでの心理的コストを払ってまで質問するわけないじゃないですか。それこそ好きな絵師のマシュマロに質問しますよね。
なので
- 「絵はとくに好きじゃないけど、自己実現の手段として絵描きになりたい」
というのは恐らく本人の言語化不足と、受け手の曲解も入っていて、本当のところは
- 「絵はとくに好きじゃないけど、自己表現の手段として絵を描きたい」
という気持ちがあると思うんですよ。特に、わざわざこんな質問をするような、「自分が何を作りたいのかもよくわかっていないけど、何か作りたい気がする」という段階だったら尚更そうじゃないですか。
これを音楽で言い換えれば、私が重要視している「社会とのコミュニケーションを取る手段として音楽を身につけておきたい」という感情に近いものではないかと思っています。
こういう動機で絵や音楽をやり始めるのは、なんら不純なことはありませんからね。今にも死にそうなボカロPが「社会」に向けてメッセージを綴るような私的な音楽を聴いたことはありませんか? 「ギターが特別好きなわけではないけど、自分にとって唯一できるものがギターだったからバンドをやってる」とインタビューで語る有名ギタリストを見たことはありませんか?
最後の点は、これに似ているんだけど、
(楽しくないとかでは全くなく)自分はこの人たちほど音楽好きじゃないな って思う機会がかなりある 自分も音楽のこと大好きだけど、それ以上に皆、信じられないくらい音楽やりまくってて、それに立ち会うたび打ちのめされる 皆が命を削って制作してるあいだの殆どおれは根暗なゲームや、根暗な本を…
— 笹川真生 (@huyuyasumi_) 2024年2月16日
私にとって、
- そもそも音楽で表現したいと思うことは「音楽をやっている時以外の時間」から湧いてきた感情や葛藤であることが多い
- 自分のイメージを作品として表現するにあたって、「音を連ねること」でしか表現できなさそうなイメージがある
自分も、泥みたいに四六時中音楽やってる人たち素直にすごいなって感動してしまう気持ちがあります。でもどう考えても自分は音楽にそこまでのめり込めないです。それでも、自分は音楽とは切っても切れない縁のようなものを感じているし、表現手段としての代替不可能性もあるわけです。
つまり、ある意味で不真面目に音楽をやっていく、単に生活の一部に音楽があるという生き方が自分にとっては自然体でした。だからたま~に音楽をやっているし、これからも音楽はたま~にやっていく形になるんだろうなという謎の確信があります。
逆に言うと、自分にとっての音楽は「だから僕は音楽を辞めた」とか「辛いことがあっても音楽は辞めない」とか、始めるとか辞めるとか辞めないとかいう次元じゃないってことなんですよね。
そういう観点で、ミキシングエンジニアみたいな音を空間表現する手助けを(依頼を受けた時だけ)して、ごくごくたま~に自分でも作曲するみたいなスタイルは理想型だなと感じています。