創作を分析するということ

私が主宰しているゲーム制作サークルは、設立当初、とにかく既存作品の分析から入った。

具体的には、既存の美少女ゲームで使われている画面効果、トランジション、漫符などの記号的表現をスクショ付きで分類し、サークル内Wikiにまとめるという作業を手分けして行った。

そうやって実例を体系化し俯瞰することで初めて見えてくるメソッドというのがある。

一つの例を挙げると、「このシーンで長いトランジションを使っているのは主人公が長い距離を移動しているからだ」などの事実に、逆引き的に気づくことができた。これは言葉にしてみれば当たり前のことかもしれないが、実際には、演出次第では長い移動でも短い切り替えで済ますこともあるし、メーカーによっても違うし、映画の技法でいうところのエスタブリッシングショットにあたる背景CGから始めている作品もあった。忘れてはならないのは、特定のシーンがどういうメソッドで実装されているかを考察して悦に入るのではなく、パターン集として血肉にするのが重要ということ。

 

こういうやり方で進めてきたので、最初の1〜2年は、叩き台としての企画ドキュメントこそ真面目に作ってはいたものの、メンバー間の議論でより本質的なのは「ノベルゲームシステムとは何か」「美少女ゲームとは何か」という話だった。ようは自分らの作品を作る以前の話である。

何もわからないまま作り始めるような高慢なやり方をせずに、地道にスタートを切れたのは正しかったと今になって思う。なぜなら、分析して血肉となったパターン集が、のちに作品内容についての具体的な議論が始まってから絶妙な効果を上げ始めたから。

たとえば、「このシーンでこのキャラは複雑な思惑を抱えているけど、すぐに主人公との対話で吐露する形にするとシーンが重たくなるし情報過多だから、プロットの時点で分割して、濃い話は後で回想として出そう。ほら、あの〇〇という作品の〇〇のシーンで実例があったよね」とか。最後の一文がとても重要。

難しい議論をしている時にこういう「実例」が出てくるのと出てこないのとでは、イメージの伝わりやすさが違う。言っている方も言われた方も「確かにそれが使えるわ」と自然に納得できる。しかも、そのアイデアが採用されず反対意見が出るときも、「確かにそのパターンもあるけどここはどちらかというと〇〇の方向性で」と別解を提示される形になり、この別解は既に出ている具体例に対する別解なので、風味の違いが伝わりやすい。

私は「創作の行き詰まりの9割は、自分自身が何をやりたいのか分かっていないことに起因する」とよく問題提起しているのだが、分析的な営みあるいは分析的な議論は、それに対する解決策の一つでもある。

 

こういう風に研究から入るスタイルは、なにもクソ真面目な「努力」みたいなことをしようという高尚な取り決めがあったわけではない。私にとってはもともと習慣化していた理系的営みの一環だった。決して日常生活や事務的な単純仕事をしている中で要求されるものではなく、エネルギーが必要な行為だ。だから、他のサークルメンバーがついてきてくれるにあたり、どうして早く自分たちの作品そのものについて掘り下げないのかもどかしく感じることもあったと思うし、サークル代表である私が言い出したから仕方なく付き合ってくれた部分も大きいと思う。

別に習慣があるなしに関わらず、そういうやり方をすると決めたのは私だから、分析的な作り方に慣れてないメンバーに慣れてもらう工夫をするのは私の仕事だし(実際、商業作品の設定資料集並みの膨大な内部資料を作っている)、意見を求めたら出してくれるのもわかっているので、感謝することはあれど不満に思うことはない。だけど面白いのが、世の中には創作をする時に分析的なことをする人としない人がいるという事実だ。

私が今まで出会った創作者に、どちらのタイプもいる。ある人は、私が提示する進め方が一種のフレームワークであることをわかったうえで自然と同調していると思う。これは、その人自身がもともと分析的な営みを習慣化している人だからだろう。ある人は、分析されることをよしとせず、分析されるとクリエイティビティが削がれる、内容についての方針はふんわりとしたコンセプトのまま投げてほしいと言う。

 

分析的習慣の中心を占めているのは言語化という営みだ。

世の中に言語化できない概念はない。なぜかというと言語化とは未知の概念に名前をつける行為だからだ。つまり言語化できていない概念が出てきた瞬間に名前をつけたらそれはそのとき言語化が完了する。しかし矛盾するようであるが言語化しきれないものというのも存在する。それは行間だ。

ある概念に名前をつけても、その概念と別の概念との間には隙間がある。その隙間にいったん名前を付けたとしてもまた隙間が見えてくる。これを行間と呼んでいる。無限にあるものに名前をつけても終わりがない。

たとえばキャラクター設定についての話をしてみる。「親を交通事故で失って叔母に育てられた女の子」がいるとする。この時点で言語化は一度完了している……果たしてそうだろうか? 

「親を交通事故で失って叔母に育てられた女の子」という言語化では、親を交通事故で失ったことと、叔母に育てられたことと、女の子であることしか情報がない。もしこの表現を見た人がなんらか「不幸そうだ」とか思ったとしたら、それは想像の結果であり、先の言語化にはひとつも含まれていない。

実際には、幸せな部分と不幸せな部分があり、その「総体」を描くのが作品だと思う。総体には言語化できる要素とその行間がすべて含まれている。物語はそのすべてをありのまま見ることができるから尊いのだと思う。